月々の歌(2011年)
 
 

一月の一首

君在りし卯年の朝をなぞらえる大内膳にひれ酒そえて



 
 
 

いくつになってもお正月の朝は心が弾みます。
美しい日の出を見れば、今年の日々の良いことの兆しに感じられ、澄んだ空気に心が改まります。良い一年でありますようにと念じながら、祝い膳を囲みました。
 東京で暮らす日々ですけれど、夫の郷里宇部のお正月の匂いを忘れることはありません。旬のふぐ刺し、てっちりは、昨今東京でも難なく手に入りますけれど、鰤の刺身とふぐの煮凝り、ひれ酒は手に入っても味が遠く及びません。
 姑が送ってくれるふぐヒレを、教えられたように、カリカリになるまで気長に炙ります。ここに熱燗のお酒を注ぎ込んで蓋をし、しばし。ヒレ酒のおいしさは私には分かりませんが、お酒好きの人たちの表情を見れば、それが大特別のものらしいのが伝わります。
 ふぐはふく(福)に通じるからと西ではおめでたい時によく振舞われます。そして瀬戸内では決して「ふぐ」とは言わず「ふく」と呼びます。ふくにあやかって、今年も穏やかな日々がもたらされるよう祈る元旦です。

 



 

二月の一首

母のいけたる椿のくれない色をまし春を手まねく寒の茶室へ



 
 
 

母が生ける茶花がこよなく好きです。
母の花を真似て、同じ素材を生けてみます。
でも、形は似ながら花に勢いが生まれません。
「花を生けるとは、花を生かすこと」
なのだそうです。
「花が行きたいように生ければ良いのよ」
とも母は云います。 
花の勢いの向く方向を見定めて、
それを生かすということなのだと思います。 

 5歳の時から茶の湯、茶花に親しんできた
母には、花の心を読む力も備わっているようです。
母から学ぶことは多すぎて終わりがありません。


 



 

三月の一首

雛つつむ和紙と似通う匂いあり祖母の遺せし錦紗の帯に



 
 
 

雛の眠る桐の長持は、思い出の玉手箱です。 
蓋を開ければ、そこには菜の花畑が広がる清水の日々が戻ってきます。
 信州の祖父の家の蔵の中で戦火を逃れたというその箱が、ようやく陽の目を見たのが清水だったのです。
 雛を手に取り、一枚ずつ和紙の包みを解いていけば、祖父母のやさしい眼差し、若々しい父母の雛壇を組み立てる手の動き、幼い弟達の
はしゃぎ声が在りし日のままに、陽射し明るい
和室の中に広がっていきます。
 
 桃の節句は、やさしさとぬくもりに守られて過ごしている自分に気付く時でもあります。

 



 

四月の一首

やわやわと春の陽ざしのとどく日に川辺の若木に初花やどる


今年の弥生の日々はつらい思いの中で過ぎていきました。そして迎えた花どきに、華やぎはありません。春を見ることも無く、1万人を越える方々があの日を境に旅立たれました。

春待つ思いが一入の雪国で、寒が去って花の季節が訪れれば、花を愛で、春を楽しまれたに違いない方々。その方々の悲しい終末を、花はいたわり、魂をそっとつつんで差し上げることでしょう。

北国にもようやく春が芽ばえる季節、花咲く美しい日本の春を、悲しみの旅に出られた方々に捧げ、心からの祈りを捧げたいと思います。

少しぬくもりのやってきた朝、川辺を歩いてみましたら、明るい陽ざしが届く一枝に、開き始めた一輪を見つけました。ようやく季節は巡ってきたようです。


 



 

五月の一首

幼な子の面ざし映す武者人形に乃吾ちゃん元気と声かけてみる



 
 
 

緑が思いがけないほどにふくらんで、にわかに庭が狭く感じられる季節になりました。

 あれほどに躊躇っていた春は、動き出せば堰を切ったように勢いを増し、気温も時に夏日です。電力不足の私達には夏の暑さはwelcomeとは参りませんが。

 あれから50日が過ぎました。物事は少しづつでも良い方向に歩みだしているのでしょうか。ゴールデンウイークはボランティアとして働きたいと、東北地方に若者が集まっていると聞きます。善意とそれを心から必要としている方々とが、うまく巡り会えることを祈っています。若い人たちのやさしさは、これからの日本の支えです。何も出来ない私は、ただの応援団ですが。

 乃吾と約束していた5月のボストン訪問は、私の事情で延期となりました。予定していた足代の一部を、日赤に届けました。
彼とは稚児人形とskypeで会っています。 


 



 

六月の一首

父の日に出さぬ手紙をしたためる小糠雨ふる庭にむかひて



 
 
 

私の大好きな6月が巡ってきました。父が戻ってきてくれる月なのです。8年前の6月の一ヶ月を私は父の傍で過ごしました。朝早くから夜遅くまで、時間の許す限り。沢山のことを語り合い、共に感じました。父親っ子だった私のために、父が最後に用意してくれた時間だったのだと思います。1日に病を得、30日に旅立ちました。その時から毎年この時が巡るたびに父へのたよりをしたためます。
父に一年分の報告をするつもりで。

 雨の中でヤマボウシが咲いています。今年はどうしたことか梅雨入りが昨年よりも17日も早まりました。梅雨の先走りに、紫陽花が間に合わず、この白い花が主役になりました。雨に枝が撓って、目線の高さで咲いています。花びらに溜まった露は涙のようです。


 



 

七月の一首

開け放ち涼風通う窓先にのうぜんかつらの艶やかなりき



 
 
 

蒸し暑い日が続きます。
なるべくならば冷房を付けずにおこうと窓を大きく開け放ち風を入れます。それでも手からタオルが離せない湿度の高い日々です。
 でも良いこともあるのです。冷房を入れれば、陽ざしを入れまいとレースのカーテンは引いたままにしますから、庭の様子がなかなか伝わりません。ところが昨今は外と内とが一体化していていますから庭の様子が手に取るようです。
 蔓性のノウゼンカズラ(凌霄花)が槿を伝って延びてきて、窓の前で花を付けました。食堂から居ながらにして楽しめる位置にです。槿の緑と相まって、彩がいっそう艶やかです。節電に精を出しているのを後押しされているような気分です。

 



 

八月の一首

良き日々の想いでもちて逝くといふ君の目元に微笑みのあり



 
 
 

夫の旅立ちから6年が巡ろうとしています。
病との壮絶な闘いの日々を思い返してみても、苛立つ様子や悔やんだり、口惜しんだりする言葉を思い出すことが出来ません。
穏やかさとやさしさだけをおきみやげに、静かに旅路に着きました。「僕には良い思い出が沢山あるから」とよく言っておりました。

 いつも笑みを絶やさない人でした。人の心に安らぎを運び込む天才でした。其の余韻の中で、今も私は寛いで過ごしています。

 夫の旅立ちの日に先駆けて、7月31日に法要を営みました。60名近い親族が集い、少しも湿っぽさのない、賑やかな集いとなりました。「楽しかった」の声があちこちから寄せられています。夫が一番好きだった和やかで明るい会になりました。きっと「ありがと」と言ってくれていることでしょう。
 大勢の皆さんから寄せられた素敵な文章でずしりと重い記念誌は、夫がよき日々を生きた証です。会の終わりに皆に手渡しました。


 



 

九月の一首

窯開けの目は確かめり一瞬に備前の肌に炎の業を


数種のやきものを1250℃で本焼をした後、日長一日クールダウンに費やしました。翌日の夕方には、窯の中は100℃までに冷えて、蓋を開けてももう大丈夫。流れ込む冷気でやきものにヒビが入ることはありません。それが待ちきれずに、開けてしまって、ダメにしてしまったやきものが山ほどあります。それほどに窯開けは待ち遠しいものです。
 どきどきするほどの期待感で蓋を開ければ、一段目の結果は一目で決します。よくよく見れば,案外良かったとか悪かったということはないのです。見た途端に気持が一気にしぼむことが圧倒的に多いのは、何年やっていても変わりません。それでも30、40に一つの可能性にかけてみたくなる魅力がやきものにはあります。この備前焼〆の花入は数少ない「やった」と思えたものの一つです。

 



 

十月の歌

秋桜花芯に蜂を抱きつつゆらりゆらりと風にまどろむ



 
 
 

絵に画いたような長閑な秋の日和です。
暑からず、寒からず、空はひたすら碧く、明るい日差しに進みゆくはなみずきの照り葉は透明感をいや増しています。

一年中で一番心地良い季節の到来に、心も体も浮き立っています。
庭を歩く回数が増えました。
穏やかな陽気に、花も木も虫たちも憩うています。金木犀が香り、庭の飛び石の上にトカゲの親子が日向ぼっこし、花々に小さなニホンミツバチが行き来する、神無月の昼下がりです。


 



 

十一月の歌

茶の道はもてなす心に尽きるとう母の茶庭に秋草の満つ



 
 
 

母のもてなしの心をもっとも端的に表しているのは床の間の茶花ではないかと思います。生ける花は全て庭で慈しんだもので、買った花で間に合わせることはありません。
勿論茶道具から菓子に至るまで、母は心を尽くしてその季節、その日に適した品を選びます。
でも茶花は育てるところから始まり、丹精の実りを生け込むまでの長い道のり全てにもてなしの心が篭められています。
今では茶花の丹精は義妹の手に委ねられましたが、庭に咲きそろう花々の多くは、母が好んで植えたものを大切に受け継ぎ、育んで、今にあるものです。
その花たちを母は茶会の度に、楽しそうに生け込んでいます。
写真提供:小川洋子(義妹) 

 



 

十二月の歌

ざわめきを水屋におきてすすみ入る納めの茶室に松風のあり



 
 
 
 

師走入りして10日あまりが過ぎました。
母の茶室は今日が稽古納めです。
いつも通りに母は淡々と茶室の準備を進めます。でも外から来られる方たちは日常生活の慌しさを抱えて玄関を入ってこられます。そして水屋に入り履物を替え、心を静めて茶室に入る準備をなさいます。
茶室は一歩入れば別世界、静寂の中に聴こえるのは、釜の湯のたぎるしゅーしゅーという微かな音だけです。茶人はこれを松風が吹くと言うそうです。
一客一亭の茶室でも、お人が次々と入られ賑わう茶室でも、そこに和みと温もりを醸しだす白い湯気と松風は、茶室の立役者と言えるでしょう。
外の賑わいとは無縁の、穏やかな師走のひとときが流れていきます。

 
 



 
 

今月の歌 表紙へ