*私の宝物 陶兵衛さんの抹茶茶碗
My favolite tea bowl made by Tobei Tahara
who is an important intangible cultural heritage.

 桐の箱に入ってはいますけれど、いつも側に置いて折りあるごとに手に取り、愛でる萩焼茶碗があります。
夫の祖父母、夫の両親、私の祖母、私の母そして夫とお茶を愛した人たちから受け継いだ、或いは贈られたゆかしい茶道具は私の手許に沢山あります。それぞれに大切な思い出と共にある茶道具ですが、この茶碗はその中でも道具を越えた特別な存在として私の傍にいてくれます。
 夫は1961年に新入社員としてある電機メーカーに就職しました。その頃の月給の明細書がアルバムに張ってあります。本給が5900円、職能給と時間外手当が付いて渡額19600円と記されています。
 その夫(当時は未だ結婚していませんでした)が最初のボーナスをすっかりはたいて贈ってくれたのがこの陶兵衛さんの抹茶茶碗なのです。
 当時私は母の茶道教室でお茶の稽古をしてはいましたが、他に楽しいことがあれば迷わず稽古をサボるような不熱心な生徒でした。やきものについても、教えられるままに鵜呑みにしていただけで、その良さを自分の目で確かめ、心で感じていたとはとても思えません。
でも夫は私に贈る最良の品は茶道具と思っていたのでしょう。私よりも母が大喜びをしていたのを覚えています。
 
 お茶の世界で茶碗は、1萩、2楽、3唐津(1と2はそれぞれの思惑で始終入れ替わりますが)とか申します。
とにかく茶人が大好きな茶碗のようです。20年ほど母が大層可愛がって茶会の折などに使ってくれましたから、随分温もりと味わいある茶碗になりました。
 萩焼茶碗は、御本手(ごほんで)といわれる独特の窯変を特徴にしていて、萩の七化けと言われるほどに年月と人の手を経て微妙に変化して行くそうです。
 ある日の茶室でのこと、母が「あとは貴女が大切に傍に置きなさい。謙治郎さんとの大切な思い出が詰まっているものなのだから」とこの茶碗を手渡してくれました。その頃には私もやきものの良さを心で感ずることが少しは出来るようになっていたのかもしれません。
母は、私の手許に置いても良い時期を見計らっていたのだと思います。 
 
 この茶碗は萩焼 深川本窯12代田原陶兵衛さん作の井戸茶碗です。
この方の略歴には
1925年 10代田原陶兵衛の次男として山口県長門市に生まれる。
1944年 旧制山口高等学校在学中に召集を受け、満州に渡る。
1945年 終戦と共にシベリアに抑留され、1948(昭和23)年、シベリアから復員。
1956年 12代田原陶兵衛を襲名。
1981年 山口県指定無形文化財に認定
1991年 9月27日永眠
とあります。
 
 この方には一度お目にかかったことがあります。
1962年、宇部に行った時に夫の父が深川の窯元に案内してくれました。お目にかかったのは、37歳の時だったのだと、今この略歴を見て驚きを覚えます。当時20代の始めだった私の目には、既に世に出て活躍していらっしゃる落ち着きと貫禄を備えた、はるかに年長の方と写りました。痩身に眼鏡の理知的な風貌の陶兵衛さんは芸術家というよりも大学の先生といった印象の方でした。
 轆轤回しを見せて頂き、萩釉の説明をしてくださいましたが、自ら土をいじったことも、やきものへの深い関心も知識も無かった私には猫に小判の勿体無いお話でした。今もう一度あのお話を伺えたらと詮無いことを思います。
 陶兵衛さんが轆轤引きされた皿に、臆面もなく私が木を数本呉須で絵付けした品は後から焼き付けて送ってくださいました。皿の美しさに引きかえ絵の拙さがいかにも不釣合いなこの作品は、落ち着かない気分のままに急いで人目に付かない所にしまい込みました。今も押入れの箱の中です。
 その時応対に出てくださった美しい奥様は、夫とは小学校の同窓生だった由、一年生だった夫の憧れの上級生だったと後から聞きました。
 陶兵衛さんのお作はこの抹茶茶碗の他にもう1点持っています。萩特有の優しい肌に淡い緋色の出た花入です。陶兵衛さんのお人柄を映して、穏やかで温かく端正です。
 宇部から利休饅頭(姑は利休さんと呼びます。お茶の盛んな宇部で、茶席によく供される宇部の名菓です。)が届きました。それを1つ口に含み、ほっかりと細かく泡だった抹茶を湛えた茶碗を手に取ります。温もりが掌から心へと伝わり、しあわせなひとときが静かに流れていきます。

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